現代人における味の判断は、複合的に評価される

グルメサイトが掲載している口コミやSNS上で入ってくる友人からの情報など、“判断材料”に欠くことがない消費者は、味の事前調査をすることが習慣化しています。ある大手グルメサイトは月間利用者数が約9,346万人にも上るといい、私たちは自分で実際に食べ物を口に入れる前に、大方の評価を刷り込まれてしまっています。

技術の進歩によって人が本来持っている五感の能力は衰えているといわれます。例えば、スマートフォンの画面に没頭するあまり、クルマが近づくなど身に危険が迫っても気づかず、事故に巻き込まれるというニュースは後を絶ちません。ヘッドフォンでボリュームを上げて長時間音楽を聴く若者が増えていることに対し、WHO(世界保健機関)は若者が難聴になる危険性にさらされていることを発表しています。

そして、五感をふんだんに使うはずの食事さえも、情報やブランドにコントロールされていては、感覚器官の衰えは加速する一方です。


↑食事でさえも自分の“舌”ではなく、他人の“評価”に依存し始めている

日本うま味調味料協会の資料によれば、美味しさとは感覚から得られるもので、食材の味そのもの以外にも食感、彩り、香り、そして麺類をすするときなどに出る音も、美味しさを感じるための要素になっているといいます。さらに食事中の良い雰囲気や環境が加わることで、より一層美味しさを感じることができるそうです。

そもそも人の五感による知覚の割合は視覚83%、聴覚11%、嗅覚3.5%、触覚1.5%、そして味覚は1%と言われています。味の判断は味覚以外の感覚器官にも大きく影響されています。そういった意味で、五感とはまったく別の情報で味を判断している現代の人々は、本当に「美味しい」という概念をまだ感じたことがないのかもしれません。(1)


↑食べ物の味は味覚以外の感覚に大きく影響される

イギリス出身で環境保護活動家のC. W. ニコル氏は、北極の大自然の中で3か月間を過ごし、体のあらゆる感覚器官が驚くほど研ぎ澄まされ、山々からは震える低いうなりや柔らかいうなりが聞こえるようになったと言います。そして自身の体に起きた様々な変化を次のように語っています。(2)

「目がよくなってメガネが必要なくなった。耳もよくなった。ただし、嗅覚もよくなったから、北極から帰ってきたら、家畜の肉が臭くて食べられなかったですね。」


↑五感が研ぎ澄まされると、臭いに敏感になる

実際、わたしたちが味を判断するときには、すでに味覚以外の感覚器官から情報が入っており、それが最終的に味覚からの情報と統合されてどんな味かが脳に伝わるとされています。イギリスにあるポーツマス大学のロレンツォ・スタッフォード博士の研究では、例えば大きいボリュームで音楽がかかっている場所ほど人はお酒を甘く感じ、より多くのお酒を消費することが明らかにされています。

小学生を対象に、嫌いな食材を入れたお弁当を1日目は屋内で、2日目は屋外で食べてもらうという実験を行ったテレビ番組がありました。その結果、屋内の場合は嫌いなものには手を付けず、食べたおにぎりの平均個数は1.7個でしたが、屋外の場合は嫌いなものも口にし、食べたおにぎりの平均個数も3個と約2倍にも増えました。この結果からも、美味しさが無意識のうちに環境に左右されていることは明らかです。


↑食べ物はそれを食べる環境や雰囲気に大きく依存する傾向がある

東京を含む大都市では、便利さが重視されているために自然は不要なものとされ、五感を鍛えてくれるはずの自然に触れる機会が滅多にありません。

そんな東京とは真逆の環境を目指している町、アメリカ西部に位置するオレゴン州ポートランドでは、市民の自然環境への意識の高さから緑地や公園が重視されていて、ちょっと足を延ばせばハイキングや森林浴も可能です。

住みやすい町として全米1位に選ばれたこともあり、移り住んでくる若者は後を絶ちません。旅行者も頻繁に訪れていて、多くの人々が自然豊かなポートランドの街に魅せられています。(3)

Portland Oregon at sunrise
↑全米中から人々が集まってくる不思議な街、ポートランド

もともとポートランドには、世の中の価値観よりも自分の価値観を優先して生きる人たちが多く移り住んできていました。そのため、同じような考えを持つ人がこの地に集まり、アメリカの他の地域とは全く異なった独自の文化やルールが築かれていきました。

ポートランドでは、アーティストやミュージシャンの他、ビール工場を始める人が多い。これはビール作りに参入しやすいよう住民たちが立ち上がりルールを変えた結果です。現在、軒を連ねるパブやバーでは、どれを飲もうか悩むほどに地ビールの種類が豊富にあります。


↑ポートランドに居住して、本格的にビール作りをする人も多い

誰でも気軽にビールを創り出すことができる環境のポートランドには、日本では見られないくらい小規模なものも含め70カ所以上にも及ぶビール工場があり、雑誌「Beer Connoisseur」でも世界のベストビール都市第1位に選ばれています。

衛生面が徹底的に管理された日本のビール工場とは違い、道路わきの倉庫のような場所、風も虫も自由に出入りができてしまう自宅のガレージのような環境で生産されているにもかかわらず、幅広い年代の人にビールは親しまれています。地元住民にとってポートランドのクラフトビールは心地よい時間を共にするための「相棒」になっているようです。


↑風も虫も自由に出入りできる場所だからこそ、出せる味がある

旅行者に人気となっているビール工場見学では、ビールをテイスティングすることもできます。飲む場所はビール工場の設備内で、樽や道具などの側でビールを飲むのが一般的です。中でもコアリション・ブルーイングという小規模な工場では、ビール樽がテーブル代わりになっていて独特な雰囲気を楽しむことができます。味だけではなく「ビールを飲む」ということにフォーカスした環境を作ることにより、ビールの美味しさが最大限生かされているのも、ポートランドの魅力の一つです。

一般的に飲食する際の環境はできる限り綺麗な方が好まれますが、衛生面が完璧な状態とは言えなくとも、その独特の雰囲気が「ビールを飲みたい」という気持ちを掻き立てます。ポートランドのビール工場を訪れたことのある旅行者は、「工場のカウンターで出来立てのビールを飲むのが幸せ」と述べており、これからは、店が綺麗というだけで客が集まってくる時代ではなくなってきています。

↑ビールの味はそれを飲む環境に大きく依存する

日本では、神社参拝の前に清めの水で口をすすぐ習慣があります。普段は飲食店でちょっと皿が汚れているだけでも新しいものに取り換えてもらうなど衛生面に関して厳しい人が、神社では野ざらしにされた水で、大勢の人が使ったひしゃくを使い口をすすいでいる姿をよく見かけます。

これは、神社という神聖な雰囲気が、野ざらしの水を「清浄感のあふれる水」と判断させてしまう一例です。

このように、実際の科学的な清潔と感覚的な清潔との間には大きなズレがあります。わたしたちの脳は無意識のうちに雰囲気に影響され、日頃は安心な食品を求めるあまり情報に頼り過ぎ、科学的な清潔さを求めてしまっていますが、感覚的な清潔さの方が人は美味しさをより感じられるのかもしれません。(4)

その証拠に日本の基準で考えれば、100パーセント衛生的とは言えないポートランドのビール工場独特の雰囲気が、「ビールを飲みたい」という気持ちを掻き立て、地元住民や旅行者にも親しまれているのです。

↑科学的な清潔と感覚的な清潔

緑地が意識的に残された風景の美しいポートランドで、クリエイターたちは日々料理を含めた様々な“作品”を生み出しており、街中には通行人を楽しませるアート作品があります。また、レストランには別の地方のシェフも注目する料理が、そしてビール工場には地元住民と旅行者に親しまれているビールがあるのです。

ポートランドがグルメシティと呼ばれている背景には、都会には見られない緑豊かな環境と食を楽しむ雰囲気が深く関わっており、それが知らず知らずのうちに五感に大きな影響を与えているのでしょう。

(1)小泉 武夫 「食と日本人の知恵」 (2002年、岩波書店) P171

(2)養老 孟司、C. W. ニコル 「「身体」を忘れた日本人」 (2015年、山と渓谷社) Kindle 1239, 1247

(3)山崎 満広 「ポートランド 世界で一番住みたい街をつくる」 (2016年、学芸出版社) P60

(4)伏木 亨 「人間は脳で食べている」 (2014年、ちくま新書) Kindle 87, 177

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真面目系会社員を経てライターへ転身。社会と日本海の荒波に揉まれながら日々平穏を探している。好きなものは赤ワイン。止められないものは日本酒。夢はいつか赤ちょうちんの灯る店で吉田類と盃を交わすこと。