【OKSストーリー】大泉 裕美子会長:前編 ~夫の平太郎亡き後、主婦業をしていた私が会社を引き継ぐことに~

株式会社大泉工場の歴史は、第五代の川口市長も務めた、初代社長の大泉 寛三(おおいずみ かんぞう)からはじまりました。前編では、夫でもあり三代目社長に就任する予定だった平太郎が病に倒れ、急遽、平凡な主婦をしていた大泉 裕美子(おおいずみ ゆみこ)現会長が、会社の舵取りをすることになったストーリーと共に、現社長である大泉寛太郎(おおいずみ かんたろう)がまだ幼かった頃のお話をお届けします。

大泉工場を紐解く上で、重要になるのは、過去のリアルなストーリーです。現在、そして未来を大切にするためには「歴史」を知る必要があります。そして、現在会社に働くスタッフたちが、大泉工場のストーリーを引き継ぎ、さらに未来のスタッフおよび関係者の方々にストーリーを伝えられるインタビュー内容になればと思い、企画しました。

昨日まで主婦だった私が、朝起きたら会社の常務に

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林:
今回、大泉工場のストーリーを紐解く上で、
会長がご経験されたリアルな声を伺うことは、
今働くスタッフたちに対しても、
これからの大泉工場を担う人材に対しても
重要なインタビューだと思います。

まずは、約3,000坪の広大なCAMPUS内を
素敵な空間にしている「ガーデン」について伺ってもよろしいですか?

裕美子会長:
はい。主人(平太郎)が亡くなった年の
5月か6月ぐらいだったかと思います。

気持ちの整理がつかないまま
当時、主婦をしていた私が
いきなり会社の常務になりました。

今後について考えている間もなく、
元々工場内にあった工員の事務所を、
今のCAMPUS内に新設することになったのですが、
一部の工員の方が、休憩時間を利用してガーデンをいじっていたのです。
それを見つけた私は、子供の頃から実家の庭とか植物が好きな性格だったので、
コソコソと一緒になってガーデンいじりをお手伝いしました。

初めは本当にお遊びの程度でしたが、
息抜きにもなるので本当に楽しかった。

主人の遺言なのかな「お前は会社のガーデンでバラをやれよ!」と

裕美子会長:
実はまだ主人(平太郎)とお付き合いしている時に、
彼が一度、新聞紙に多くのバラをくるんで、家に持ってきてくれました。
当時も、CAMPUSの中庭でともよ お祖母様が育てたバラがたくさん咲いていたのでしょう。

それから主人が亡くなる前に病床で
「あなたの病気が治ったら、こういうことをしたい、ああいうことをしたい」って
二人でよく話をしていました。

主人がふと振り返り、私に言ったのです。
「お前は会社のガーデンでバラをやれよ!」って。
何気なく「バラねっ」みたいなことを言った記憶があります(笑)。

ただ、当時はバラの中にたくさん虫がいたの。
そんなこともあったのでバラを避け、私はミントをワンポット買ってきて、
ちょっと植えたりしました。
今思えば、それがCAMPUS内のガーデニングの始まりだったんですね。

ガーデン内をちょこちょこと手入れしているうちに、
主人のことを思い出して「やっぱりバラがいいかな!」と感じたのが、
バラとのお付き合いの始まり。

そこからバラ研究家の梶みゆきさんの本を購入し、
「あのように咲かせたい」という思いで、バラを育て始めたんです。

林:
ご主人である平太郎さんとの思い出なので、
会長にはバラへの特別な思い入れがあるのですね。

裕美子会長:
そう、今思えば、あの時の主人の言葉は、ある種「遺言」。
まあ、主人もあの当時、自身が亡くなるなんて思っていないし、
そもそも彼は果物が大好きだったので
「果実が成る木を、一緒にいっぱい植えようね!」と話していましたね。

 

 

記事をご覧いただいている読者の皆様に、バラの歴史とリンクしながら少しだけ昨年実施した外壁工事および完成の様子についてご紹介させてください。

素敵な環境を創造するCAMPUSを目指して、皆と共に歩む

全体

2020年9月17日(木)、株式会社大泉工場本社敷地(通称OKS_CAMPUS)
の外壁・正門・裏門・電話BOXなどが新たに完成しました。

 

新たなCAMPUS外壁の完成を祝うため、大泉工場のスタッフたちが集まり、お披露目セレモニーを開催。しかし、ただ単に外壁などを「修理」した訳ではありません。

壁工事のきっかけは「GARDENに咲く美しいバラ」

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大規模な外壁の工事を行った理由には、これからの大泉工場の飛躍・未来への決意という意味合いと、もう一つは、CAMPUS内のガーデン・歴史への敬意があります。

大泉工場のガーデンは、会長が大事に育んできた、緑にあふれています。その中でメンテナンス事務所の横には、とても綺麗なバラたちが、外壁工事の前は咲いていました。

しかし、そのバラが巻きついているのは、老朽化して崩れそうなメッシュの柵。
寛太郎社長は、大泉工場に戻った当時から、ずっと気がかりだったそうです。

「この美しいバラを、いつか最高の環境で多くの人に見てもらいたい。」この想いから、大規模な外壁工事を行うこととなりました。

残念ながら現在、バラは撤去されていますが、バラ以外にも、GARDENには美しい植物が咲き誇っています。四季折々の美しい植物を、最高の環境で人々に見ていただくことは、私たちのVISIONである「素敵な環境を創造する」に繋がっています。

様々なストーリーの中で、CAMPUS内は変化を遂げています。
話を裕美子会長のインタビューに戻します。

 

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裕美子会長:
洋館(現在の株式会社大泉工場本社屋)に関しても、
私が「なんか素敵なお店をやりたいわ」みたいな夢を語ったり、
主人は主人で「地下を僕は映写室にするから、僕たちの美術館みたいにしようか」など、
未来について語るのは、本当に楽しかった。

「この中(CAMPUS内)で、カフェをやってもいい?」と言ったら
主人は「いいよ。でもまず勉強しなさい、勉強してから」と。会社なので当たり前ですよね。

林:
洋館の地下に映写室を作る構想があったのですか?

裕美子会長:
そう、大泉家の財産を無駄にするのではなく、何かに活かしたいねって。

現在、洋館に関しては、リノベーションをして、
本社としてスタッフの事務所として活用している反面、
私たち夫婦の思い出のある場所であることも事実。
当時の嫁入道具は全て洋館に入れました。
大切に洋館を皆には使ってもらいたいと思います。

林:
そうですね。
昔のものを大切にすることは、
社員ひとりひとり、場面場面で感じ取らないといけませんね。
昔の財産を今、活用して次に繋げる。
日々の業務が増えれば、
そのことを私も含め忘れがちになりますので。

CAMPUSをより良い空間にしたい、裕美子会長の想い

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林:
今の中庭に、桜がありますよね。
桜の木は元々あったのですか?

裕美子会長:
私が主人と出会う以前から、桜の木はあったそうです。
でも、主人が大泉工場に入社して、
「桜の木を数本植えたよ!」って言っていましたね。
大事な桜の木です。

林:
私が入社して、会長は常にガーデンを綺麗にしていた印象があります。
なんとなくではありますが、思い入れがあるのだな、と思っていました。
ようやく今回、インタビューで伺うことができました。

CAMPUS内にある「1110 CAFE/BAKERY」の前は、
今のコンセプトとは違うカフェ「IMUZIO GARDEN & cafe」を運営されていました。
背景を伺ってもよろしいですか?

2013年頃、友人とガーデンについて話をする中で、
「オープンガーデン」というアイデアが出て。「オープンガーデン」という場所には、
訪れた方に対して、お茶を出す場所が必須なのですが、
当時は座る場所がないよね、こんなメニューがあったらいいよね、など
様々意見交換をして、当時、「IMUZIO GARDEN & cafe」を完成させ、運営していました。

寛太郎(四代目:現社長)の大泉工場入社を機に、
カフェやガーデン以外の会社運営を寛太郎に任せ、
分業で進めてきました。

「IMUZIO GARDEN & cafe」のイメージの内装やメニュー構築などには、
何の苦労もなかったです。なぜなら、もともと好きなことだったから。
※現在の1110 CAFE/BAKERYの運営は、事業部で運営しています。

林:
しかし、内装やガーデンはセンスなんだろうな、と。
初めて面接で大泉工場に来た時を忘れませんが、
時が止まる感覚がありました。
あの空間は、やっぱり簡単には作れないんだろうなと思っています。

裕美子会長:
そうね、植物って育つまで年月がかかります。
私はやっぱり好きなんですよね、お客様と話をして
皆様にガーデンを見ていただくことが。
「ここに雑草が生えてはいけない」とか、どんなに細かいことでも、どうしても気になってしまいます。
やっぱり私は、いつまでもお客様目線でガーデンを見ているのかもしれません。

林:
だからこそ、細かいところもガーデンのお手入れをいつもなさっているのですね。

裕美子会長:
そうですね。絶対にここをお客様は見るなってところ以外は手を抜いているんですけど(笑)。

林:
「IMUZIO GARDEN」と名付けたのは会長ですよね?

裕美子会長:
色々考えましたよ。「Precious GARDEN」とか。
いろんな素敵な言葉を考えたのですが、なぜかピンとこなくて。

ある日、とあるホテルのオーナーが、
自分の名前を逆にして、ホテル名にしたことを聞いて、
「大泉」をアルファベットで「OIZUMI」にして逆に読んだら、
IMUZIOになったので、結構いいかもって思って名付けました。

林:
私の個人的な意見ですけど、家族なので当たり前ですが
裕美子会長と寛太郎社長は似ていますよね。

裕美子会長:
そうですね、一緒に楽しいことをやっている時はすごく楽しいけど、
似すぎるからぶつかる時もありますけどね。

母の存在はすごく大きかったはず。
ある意味、善し悪しは別として、
大泉家を守るための母のやり方が、
もしかしたら見習えないところもあったかも知れませんが、
寛太郎には理解してもらえたら嬉しいですね。

寛太郎にとって、会社の経営者である母の存在は
仕事をする上で、彼自身の考え方を消してしまう存在となっていないか、
そんな不安もありました。

裕美子会長:
話は変わりますが、実は私、
もう一つガーデンでやりたい夢があって・・・(笑)。

林:
ちなみにどういう夢ですか?

裕美子会長:
ガーデンにお越しいただいたお客様に、
喜んでもらえるコンサートを開催したい。
カフェの中に室内弦楽のアーティストを
呼んだらいいなって。

この歳になって、初めて、
とあるボーカルグループのファンクラブに入会したんですけど、
その子達に演奏してもらったら、とても素敵だなって。

頭の中にはいっぱいあったんですけど、実際はなかなか上手くいかず。
寛太郎と違って私は行動力とかがあまりなく、空想だけで生きている人間なので
ダメね。

林:
そんなことはないです。
例えば、ファーマーズマーケットなどで、
一般のお客様がCAMPUSを散歩しにお越しいただいたりとか、
「1110 CAFE/BAKERY」を利用して
シークレットガーデンで座っていたりする姿を見て、
やっぱり、整備が行き届いた空間づくりだからこそなんだなって思います。

「寛太郎に会社を任せたい」想いを伝えるため、熊本へ飛ぶ。

林:
ガーデン整備は、寛太郎社長のCAMPUS構想にも紐づく話だと思います。
会長と寛太郎社長のストーリーを伺ってもよろしいですか?
当時、熊本のパルコで働いていた寛太郎社長を、
どのような想いで呼び戻したのですか?

裕美子会長:
2007年、私と、会社の相談役であった方、
そして、会社運営におけるさまざまな面でサポートしてくださっていた主人のお友達と、
3名で熊本に飛びました。

寛太郎と直接会って会社の状況を説明し、
大泉家に関連することは、私が責任を持ってやるので、
会社(大泉工場)のことは寛太郎にやってほしいと伝えました。

林:
その時の寛太郎社長の反応は?

裕美子会長:
主人が他界した当時、彼はまだ中学2年生でしたが、
周りからは「将来、あなたが大泉工場を背負って立たなければいけない」と言われていました。
「その時が来たのか」というような反応でしたね。
自身で会社を背負うことの自覚は、あったようです。

私は本気で泣きました。会社の経営者であり、母親である側面もあり

裕美子会長:
日をあらためて、有楽町でコンサルティング会社の方と会っている時、
会社の実情を伝えました。

スタッフひとりひとりの人生を背負い
会社員から急に会社の経営者となり、
まずは専務とは言え先頭に立つ事になるので、
その重責からか寛太郎は頭抱えて「どうしよう・・・」と悩んでいる様子でした。
申し訳ないという気持ちから
会社の人間として、そして母として私は泣きました。

寛太郎の仲間には、会社の経営者がいて、
その会社を継いでいる方もいらっしゃいます。

受け継いだ息子たちには、帝王学を知っている社長がいて、
きちんとしたプロセスの基、
段階を踏んでステップアップしています。
寛太郎には、「学び」のステップがありません。

訳の分からない大泉工場を経営させるのは
かわいそうかなと、当時は思いました。

後は寛太郎に引き継ぐ、その時がきた

裕美子会長:
私は、主人と義父がしてきた経営を引き継ぎ、
ある程度、会社のベースを作ってきたつもりです。
後は寛太郎に繋ごうと。
やや早いけれど、タイミングは良かったかなと思います。

林:
そして、寛太郎社長(入社当時は専務)は大泉工場に来た形ですね。

裕美子会長:
良い意味でも荒れてましたよ。
彼なりに考えがあったようで。
入社前、彼は約一か月、ニューヨークに行ってました。
帰国してから、大泉工場に入社したわけですが、いきなり突拍子のないことを言い出しましたね。

帰ってきて、入社していきなり「ポップコーンのビジネスをする」と。

「ポップコーン?」
最初は「?」ですよね。
向こう(アメリカ)で撮影した映像見せられました。
内心ではカッコいい商材と感じましたが、
当初は私から見ても
「これ日本にないから是非やりなさいよ!」
「絶対に売れるから!」とは言えませんでした。

林:
面白い運命ですよね。
そのNYCでポップコーンと出会い、刺激を受けて、
寛太郎社長にも「気付き」があったのでしょうね。
今のFUN FOODの事業(FUTURE FUN FOOD)に繋がっていますから。

裕美子会長:
はい。ただ、事業の柱を作るため、
寛太郎が大手ポップコーンマシンメーカーと交渉し
自ら考え出してやったことなので、
行動力もそうですが、尊重はしています。

図1

実際に鋳物関連の製造業を終わらせたのが2008年。
とにかく全部なくして、ここにあった機械を近くの鋳物屋さんたちに
購入いただいて、寛太郎が余計な業務をしないよう努力しました。

林:
鋳物関連の製造業を終了。
事業のスリム化もそうですが、
鋳物関連で従事いただいた職人である工員の方たちを
リストラせざるを得ない状況になってしまったことなど
精神的にパワーを使ったタイミングは裕美子会長ですよね?
三代目の予定だった平太郎さんが亡くなり、裕美子会長が三代目になった時代。

鋳物はなくなりましたが、
現在の寛太郎社長は、発想力や企画力を基に
新しい事業を展開しています。
例として、今後、日本の市場が大泉工場を追っかけてくる
KOMBUCHA_SHIPなどがありますよね。

裕美子会長:
それはうちの主人もそうだったんです。
「主人が言っていたことはこれなのかっ!」など、
後になって思うことは結構ありましたね。

その辺も、寛太郎は受け継いでいると思いますよ。
そして、私の主人は本当に優しくていい人でした。

まだ携帯電話もないような時代でした。
主人は自分のためというより、
本当に「世のため、人のため、家族のため」
みたいなところもあって。

林:
現在の寛太郎社長もお父様も、
漠然と何かビジョンのようなものが見えていたのかもしれませんね。

大泉工場のスタッフには感じたことを表現してもらいたい

林:
会長から見て、現在の大泉工場スタッフはどのように見えますか?

裕美子会長:
若くて何でもできるなって純粋に思います。
私は40歳で主人を亡くしているので、その頃で考えが止まっているところがあって、
大人になっても、その場その場で人格を変えていかなきゃいけないのだけれど、、、
人間の本質は絶対にかわらない。

素敵なものがあると「素敵!」と思います。
「何かやりたい!」と思えばやりたいという気持ちが高まりますし。
各々が感じたことを、計画通り動けばいいと思います。

でもね。やっぱりガーデン。
このガーデンが好き。

今のスタッフに言いたいことは、
昔からコツコツと育ててきた大切なガーデンであり、CAMPUSなので
居心地の良い空間を創り続けてもらいたいなと思いますね。

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裕美子会長のフィルターを通してみた会社、そしてガーデンへの想いと、
寛太郎社長や大泉工場スタッフへの想いを感じたインタビューでした。

後編では、歴代の社長について少し掘り下げてご紹介します。

ABOUTこの記事をかいた人

TAK☆

大学在学中に、某新聞社編集局でアルバイトしていた頃、米同時多発テロ、えひめ丸事故などが発生。記者たちの姿に感銘を受け、世の中に対して「真実を伝える報道」への憧れを抱く。大学卒業後はPR会社に入社し、地方自治体や企業の広報サポートに従事。その後、新聞社を経験し、大泉工場にて現職である広報関連業務に携わる。最近の気になる言葉は「次世代」「街」「調和」、好きな映画監督はM・ナイト・シャマラン。メッセージを自身で考える作品を好む。