_SHIP KOMBUCHAブルワー門田です。
大切にし続けて15年が経つ、MARNIのカシミヤセーターがある。先日、それを着ようとしたら繊維の隙間から陽の光りが差し込んだ???
見事な虫食い穴だ。小さな穴が開いているのを発見した。クローゼットの片隅で、いつの間にか小さな命が私のセーターを美味しくいただいていたらしい。
セーターは“ただの服”ではなくなって、時間とともに呼吸し、経年変化する生き物のように感じた。大事に着ていた衣服が虫に食われるのは悔しいが、その穴が僕に何かを知らせてるのではないかと、顔を洗いながら目の前の鏡に映った自分の顔を眺め、どこかで自分に言い聞かせた。
気に入っていた服に訪れた不意打ちに、やむを得ないと思うと同時に、奇妙な喜びが湧き上ってきた。
15年経ち、一枚のセーターが物理的に朽ちていく様を目の当たりにして、まさにそれまで見過ごしてきた服の存在そのものが声を出して「質量」を突きつけてくるようだった。
情報化された衣服への想像力
私の周りでも服をネットで選び、画面上の情報として処理しがちな傾向にある。
商品の写真やデータとして存在する服のイメージは、実際に肌に触れたときのふわりとした触感から遠ざかっているように思う。それでも私たちはつい、クリック一つで手元に届く情報を追いかけてしまう。めんどくさいことを言うが、「縦糸と横糸が重なり合った物体には、デジタルでは表現しきれない温度がある」と私は信じてやまない。
「着た自分」を想像する過程で、必死に記憶の引き出しから布やシルエットの感触を取り出し、目を閉じて確かめる。自分は肌感覚を重視するので、ネットで服を眺めている時も手触りを頭でシミュレートしながら楽しんでいる。つまりこんなデジタル時代にあっても、“手ざわり”への欲求は消えていない、むしろ強烈にそれを意識させる。ただ結果、ネットでの買い物はしんどいとなる訳だけど。

裁縫と記憶の郷愁
昔を振り返ると、僕が服飾を学んでいた学生時代はまだ自分の手で縫ったり編んだりすることが楽しくて仕方なかった。廃校になった体育館のような古いアトリエで、僕たちはミシンの音を聴き、ハサミで布を切り、糸を針に通していた。
家で誰かの手によってひと針ひと針縫われていた時代の話を先生から聞くと、その温かさに郷愁を感じていた。
僕は恵まれているかもしれない。手縫いを生業にしていた祖母や現役でお針子をしている母の姿に触れて、服には目に見えない時間や家族の思い出が染みつくことを知っているからだ。
大量生産のアパレルが棚を埋め尽くし、気軽にボタン一つでワンクリック購入できる現代にあっても、手作業で仕立てられた服の質感や存在感、繰り返し奏でられる針を布に突き刺す音は、僕の中で美しく残っている。
服は媒体、ストーリーを帯びて
服はただのモノではなく、ストーリーと感情を宿した媒体だ。
例えば、衣服は「身体と環境のあいだを媒介する表面」であり、物質と非物質、内部と外部、身体と精神といった二項対立を揺るがす存在だと言う。まさに僕の15年モノのMARNIのセーターも、その虫食い穴とともに、僕とセーターを結ぶ時間の文脈をたたえている。
使い込まれたジーンズのヒザの色褪せや、子供が学校で染めてきたハンカチは、ディテールの一つひとつに個人の物語を宿す。
日々身につける服は、ファッション媒体である雑誌やSNSとは違って、僕らの身体そのものをキャンバスにした生きたメディアなのだ。
デジタルとアナログの狭間で
一方で、デジタルな感覚も僕の考え方に入り込んでいる。たとえば視覚的なプログラミング環境では、テキストではなくGUI上の「パッチ」を組み合わせてプログラムを作るという感覚がある。Pure Dataというツールでは、長方形のオブジェクトを並べてそれぞれの入出力端子をケーブルでつなぎ、まるで実際の電子機材を配線するかのように操作する。このような操作は、完全に目の見えない世界で思考するよりも、触覚的な手応えがあり、何かを「組み立てている」という実感をもたらしてくれる。まさに、計算機の中で作られた「自然」と実世界の自然が近づきつつあると考えられており、やがて両者が融合して「新しい自然」が現れるように感じる。
こうした目で見て手で触れるインターフェースは、デジタル空間でも身体性を呼び覚ます。実際、研究者らも「身体とその感覚の経験を通じてテクノロジーに関わり直す」ことの重要性を強調している。僕自身も、パソコンで表現されるものと、糸や発酵容器で感じるものとの間に微妙な振れ幅を見出しながら、デジタルな論理とアナログな直感のあいだで思考している気がする。
発酵と変化の対話
_SHIP KOMBUCHAでの日々はまさに、目に見えない生命との対話だ。目に見えない酵母やバクテリアが織りなす発酵プロセスには、独特の手触りがある。温度計の数字やpHペーパーには映らない、微生物の息遣いや温もりを、僕たちは時折、嗅ぎ、味わい、肌で感じ取る。こうした行為は純粋に情報処理すること以上に、身体的な体験だ。僅かな酸味や甘みの変化も、舌と鼻が教えてくれる。それはまるで古いセーターを指で撫で、愛おしさを確かめるような、ささやかな安心感だ。
僕たちが毎日行っている温度管理、観察は、畑で野菜を育てる農家さんと似ている。僕ら醸造家は発酵の現場で目に見えない生命と共生し、数値や公式だけでは捉えきれない変化を『手触り』として受け止められる素晴らしい体験を毎日している。
セーターの穴で考えてみると、物質的な服と発酵というプロセスは、一見遠いようで重なるところが多い気がした。生活の中に昔からあった“手触り”を思い出させ、情報ではなく身体を通して世界を感じさせてくれる。目には見えなくても確かにそこにある質感と変化を相手に、僕たちは今日も両手で世界を編み直していく。デジタルに覆われた時代では、手触りへのこだわりとともにそれを受け止める身体性に敏感でありたい。僕はこれからも、身体感覚を大切にしながら発酵に向き合う醸造家でありたいと思っている。
あとがき
読んでくださってありがとうございます。日々の発酵作業や衣服との付き合いのなかで感じる「変化」を言葉にしてみました。_SHIP KOMBUCHAの仕込み場では、見えない微生物たちと、手ざわりを重ねながら、今日も未来へ向けてコンブチャを仕込んでいます。